チャペルコンサート 2026年8月16日


メッセージ:『教会でひと休み』

 いきなりですが、皆さんにとって「良い休み」とはなんでしょう。きっと人によって色々違うのではないかなと思います。ある人はなるべく動かずだらだらするのが良い休みかもしれない、別の人はたくさん身体を動かすのが良い休みかもしれない、いつもどおり家にいるのが良い休みだという人もいれば、いつもとは違う場所にお出掛けできることが良い休みだと考える人もいるでしょう。ですから「良い休み」と一言で言っても、個人の感想や感覚に従うならば、それは一概にどうとは言い切れなくなってしまうのです。そこで気になるのが、では聖書は「良い休み」について何を教えているのだろうか、ということです。

 意外に思われるかもしれませんが、聖書には「もっと頑張りましょう」とか「努力しましょう」ということは書かれていません。その代わり何度も登場するのが、「ちゃんと休みなさい」という命令です。ちなみに聖書の教えというと「隣人愛」が有名ですが、聖書全体で隣人愛が語られている箇所が26か所なのに対して、休みについて語られている箇所は45か所になります。倍近いです。ですから実は聖書は、「ちゃんと休むことを教える書物だ」と言えるでしょうし、よく聞く隣人愛も、ちゃんと休むことが前提にあるからこそ成り立つと言えるでしょう。

 但し1つ気をつけねばならないことがあります。それは、なんでもやたらに休めばいいというものでもない、ということです。冒頭の話に戻りますが、ある人は家から出ないのが良い休みかもしれませんが、それは他の人からしたらひどく苦痛な話かもしれません。私たちが普段「良い休みだ」と過ごしている休み方も、実はもっと良い休み方があるかもしれません。少なくとも、私たちなりの休み方ではなく聖書が教える休み方でない限りは、聖書が教える良い休みとしてはカウントされません。では聖書が教える「良い休み」とはなんでしょうか。

 本日は出エジプト記20章8節から11節を読みました。ここには「六日の間は働いて何であれあなたの仕事をし、七日目はいかなる仕事をしてもならない」と書いてあります。ここで「仕事」と書かれている言葉に注目です。旧約聖書が書かれたもとの言葉はヘブライ語ですが、ヘブライ語でここに書かれているのはいわゆる労働や職業としての仕事ではなく、日常生活の上でなされる日々の事柄や営みを広く指す言葉です。「日々の営み」という風に考えるとわかりやすいかもしれません。そこに含まれるのはただの労働や家事だけではなくて、日々行っていることや担っていること、更にいえばしていることや考えていること、好きなことや気持ちを向けている事柄など、そういった日常的なことから距離を置いたとき、人は本当の意味で休めるのだ、と教えているのです。

 あなたは良い人かもしれません。良い上司や良い同僚かもしれません。あるいは良い家族かもしれませんし、良い友人かもしれません。立派な人かもしれませんし、素敵な人かもしれません。ですがそうしたことすらもお休みにして、あなた自身になる時間を持つこと、それが今日の聖書の「いかなる仕事もしてはならない」という教えの意味です。誰かから見たあなたではなく、あなた自身になることで、あなたにとって本当に大切なことが見えてきます。本当は大切ではないことも見えてくるかもしれません。本当にすべきことがわかるかもしれませんし、本当はすべきではないことに気付かされるかもしれません。そして、そうしたことに気付けることこそが、聖書が教える良い休みなのです。

 教会では毎週礼拝が守られています。礼拝で得られる落ち着きや恵みを求めて、毎週人々が集まります。それは、何か小難しい話を聞くとか、何か言葉にできない不可思議な体験をするとか、そういうことではないのです。そうではなくて皆、礼拝に、休みに来るのです。良い人であるとか、立派な人であるとか、そういうことをお休みして、自分自身になって、自分にとって本当に大切なことと、本当は大切ではないことを確認するために礼拝に集まります。ですから教会の礼拝は一息入れる場所でもあり、また、良い人とか立派な人であることを休むための場所でもあって、そういう二つの意味で、ひと休みの叶う場所なのです。

 今日の礼拝が皆さんにとって、ひと休みとなりますように。そして願わくば皆さんが、礼拝を通して得られる落ち着きや恵みを折々に受け取る人生となりますように。