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ショートエッセイ#10『靴、時計、そして聖書……聖書?』

先日、フランシスコ教皇が死去したという報せに接した。世界的指導者である彼の死に、多くの人々が悲しみと感謝を表した。その一方で、彼が最後まで所有していた「私物」が注目を集めた。それは、革靴一足、CASIOの腕時計、そして一冊の聖書であった。
おそらく多くの人は「物の少なさ」に驚くだろう。清貧を旨とするカトリックの伝統を誠実に生きた証とも言える。彼は身に付けるものを支給品で済ませ、給料はすべて慈善に捧げ、使用人すら雇わなかった。しかし私が驚いたのは、物の少なさではなかった。彼が最後まで「聖書を私物として所有していた」ことに驚いたのである。
言うまでもなく、教皇という立場であれば、どこに行っても聖書はあるだろう。礼拝堂、書斎、会議の席、あるいは儀式の場においても、聖書は当然のように手の届くところにある。しかも、質の良い装丁で支給されたものが何冊も備わっていたに違いない。にもかかわらず、彼は一冊の聖書を「自らのもの」として所有していたのだ。
このことは、「聖書を読む」「聖書を携える」といった行為を超えて、「聖書を自らの人生の一部として抱き続けた」という姿勢の証ではないだろうか。信仰者にとって聖書は単なる情報源ではない。生き方の指標であり、心の教師であり、揺るぎない土台であり、そして神との対話の場である。その聖書を「所有している」ということは、「それを手元に置くことの意味」を真剣に考えてきた証でもあるのだ。
私たちは、日々様々なものを所有して生きている。スマートフォンや家電、自動車や衣服。しかし、それらが人生の終わりに何を残すかは定かではないし、死の床で尚すがりつくものであるとも思えない。所有することが、必ずしも意味を持つとは限らないのである。しかし、フランシスコ教皇が遺した三つの私物のうちの一つが聖書であったことは、明らかに意味がある。それは、「人生の終わりに残るものは何か」を静かに語っているし、同時に問うているともいえよう。「あなたは人生の終わりまで何を残すのか」
聖書を持つ。それはただの読書道具ではない。神の言葉を、今日という一日へと差し込む光として、持ち運ぶということだ。だから私は思う。腕時計も革靴も最小限で済ませた男が、それでも聖書だけは手放さなかったという事実は、何より雄弁に、彼の人生を、そして神と共にある人生の豊かさを物語っている。
