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ショートエッセイ#11『ありのままでいい…のか?』


 まったくもって聖書の教えでもなんでもないものが、さも聖書の教えであるかのように語られることがある(ひどい時には教会の牧師ですらそのように語ったりする。まったくもって困ったものである)。そしてその最たるが「あなたはありのままでいい」だろう。

 「あなたはありのままでいい」。よく聞く言葉だ。優しくて、安心する響きがある。かつては某ディズニー映画のキーワードとして話題になったこともある言葉だ。そしてこの言葉の意味合いや由来がさも聖書にあるかのように、あるいはキリスト教は「あなたはありのままでいいのですよ」と教えているかのように考えられることがある。しかしそれは間違っている。「ありのままでいい」、耳に心地は良いが、聖書には一度も登場しないし、なんと驚くべきことに、聖書はその逆を教えているのである。

 聖書が繰り返し語るのは「悔い改めよ」だ。そしてその意味は「本来のあなたを取り戻そう」である。想像してみてほしい。泥だらけの靴を履いたまま、「ありのままでいい!」などと言いながらソファに座ったらどうなるか。自分もソファも大変なことになるだろう。しかしだからと言って「お前の靴が汚いのが悪いんだ!」と怒鳴りつけてもあまり意味は無い。むしろ「さ、靴を脱いで、きれいにして、気持ちよく座ろう」と言う方がよっぽど建設的だろう。聖書が言う「悔い改め」はこれと同じである。「お前は汚い!」と責めるのではないし、まして「ありのままでいい」などという無責任な事も言わない。「汚れを落として本来のあなたを取り戻そう」というのだ。

 「ありのままでいい」という言葉は、一見優しさのある受容の言葉に見えるが、実は極めて無責任で危険な言葉である。なぜならば、それを免罪符にして「自分はこれでいいんだ」と固まってしまったら、成長の機会も、幸せになるチャンスも、そして本来の自分の輝きや価値も、すべて自分から手放してしまうかもしれないからだ。だから聖書はそうではなく、「本来の自分に戻る道」を示す。それが「悔い改めよ」なのである。

 よく考えてみれば当然の話なのである。汚れたままの靴が「ありのままでいい」わけがない。きちんと汚れを落として本来の姿を取り戻した方がずっといい。それは服でも、美術品でも、そして私たち人間でも一緒なのである。聖書の言葉を用いて、本来の私たちを取り戻そうではないか。