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ショートエッセイ#14『本当に要らないものか?ほんとか?』

大阪万博の会場で、ユスリカという小さな虫が大量発生し、問題となっている。アース製薬が現場に出動するほどの騒ぎである。ユスリカは見た目に不快感を与え、群れをなして飛び回り、目や口に入りそうになる。来場者にとってかなり迷惑な存在であることは間違いない。そしてこの虫の大量発生には、実は意外な原因があった。それはずばり
「野鳥を追い払った」。
会場周辺では、フン害や鳴き声の問題から野鳥が遠ざけられていた。しかしその野鳥たちは同時に、ユスリカの幼虫を食べる存在でもあった。つまり、人間の都合で追い払った結果、生態系のバランスが崩れ、虫だけが残ったというわけである。
この出来事は、どこか私たちの人生と似ている。私たちは日々、自分にとって快・不快、有用・無用といった基準で、物事を取捨選択している。ある関係を断ち切ること、ある時間を「無駄」と判断すること、ある営みをやめること。しかしそうした選択のなかには、実は自分を静かに支えてくれていた何かを手放している可能性がある。わかりやすい都合や好き嫌いだけで簡単に切り離してしまうと、思わぬ形で人生のバランスを崩すかもしれない。野鳥を追っ払った結果ユスリカが大発生してしまったように。
そして私が思うに礼拝もまた、その一つだと思う。忙しい生活のなかで、礼拝の時間はまっさきに削られがちである。「行かなくても困らない」「信仰は心のなかにあれば十分」「そもそも礼拝の大切さとか知らない」そう思って距離を置く人も多い。だが、週に一度、神の前に心を静め、自らの軸を整える時間は、人生のバランスを保つための見えない支柱のようなものではないだろうか。目に見える成果や即効性はないかもしれない。しかし、礼拝を通して育まれる感謝、悔い改め、祈りといった営みは、長い目で見れば、心の奥底に秩序や柔らかさを生み出していく。まるで、誰にも注目されていなかった野鳥が、実は虫の増殖を防いでいたように。
いらないと思って追い払ったものが、実は必要だった。礼拝を守るという営みもまた、そうしたものの一つである。礼拝はあえて手放さず、大切に持ち続けるべきものなのである。ユスリカがたからない人生を歩もう。
