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ショートエッセイ#17『思ってたよりずっと暑いらしい』


 気温というのは客観的な数値である。たとえば天気予報で「本日の最高気温は30度です」と報じられれば、それは全国共通の指標として通用する。何よりそれは、人を選ばない。今日仕事の人も、今日休みの人も、老いも若きも、みんな気温は30度である。気温は全ての人に平等であり、差異は無い。

 しかし、それと実際の「暑さ」は必ずしも一致しない。とりわけ幼児の場合、なんと体感温度が大人より最大で7度も高くなるという研究結果がある。理由は明確で、地面からの距離が近いためアスファルトの照り返しを強く受けること、体温調節機能が未熟であること、そして基礎体温自体が高いことなどが挙げられる。こうして幼児の場合は、同じ環境にいても受け取る「温度」が大人とはまるで異なる。大人が「良い感じに快適だな」と思っている所で幼児は「あちーなぁ!」と感じているかもしれないのだ。

 気温と体感温度は必ずしもイコールではない。そしてこのことは私たちが日々接している「心の温度」にもあてはまるように思う。たとえば、ある一言がある人には何でもない軽口で済むが、別の人には深い傷を残すことがある。あるいは、ある出来事がある人には「やっと報われた」と感じさせるが、別の人には「どうして自分だけが」と感じさせることもある。つまり、出来事そのものよりも、それをどう感じるか、体感としてどう受け止めるかが、実は人間にとってとても大切なのである。

 礼拝は、その「体感温度」に耳を傾ける時間である。社会が示す数値的な評価、職場が求める成果、家庭が期待する役割。それらは一つの「気温」かもしれない。しかし、それが今の自分にとってどう響いているか、重すぎるのか、ちょうどよいのか、あるいは無感覚になってしまっているのか。神様の言葉を前にして初めて、私たちはその「温度」に自覚的になることができる。聖書は時に厳しく、時に優しい。だがそれはすべて、私たちの現在の「体温」を映し出す鏡のようなものである。その言葉を通して、自分が今どこに立ち、何を大切にし、何を疎かにしているのかを点検する。そしてその点検を通して、人は本当の意味で「自分自身の声」に耳を傾けることになる。客観的な気温だけで満足してはいけない。他者の基準や常識に従っているだけでは、心は置き去りにされる。体感温度を知ること、それが人間を人間たらしめる。礼拝とは、その感受性を取り戻すための、週に一度の静かな体温測定なのである。