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ショートエッセイ#18『形ばかりの拍手と、心からの拍手 』


 拍手ほど曖昧で、そしてあたたかな行為もない。喜び、賞賛、賛同、労いなど、様々な感情が、両手の音に込められる。演奏や講演の場では、拍手は一種の儀式のように行われる。始まりに拍手。終わりに拍手。ときにスタンディングオベーション。しかしそのすべての拍手が、同じ重さを持っているわけではない。

 先日、時の教皇レオ14世がこんなことを言っていた。

 「スピーチの最初に拍手されるのは儀式みたいなもので誰もがそうする。問題は最後。最後まで寝落ちせず聞いてくれた者だけが最後に拍手をしてくれる。だから最後の拍手は奇跡なのだ。」

 最初の拍手は、まだ内容を知らないままに贈られる。ある意味でそれは礼儀であり、形式だ。だが最後の拍手は違う。言葉を受け止め、意味を汲み取り、思いを共有した者だけが、最後に心を込めて手を叩く。その拍手には、途中で去らず、眠らず、考え抜いた者だけが共有した時間と集中と共感が込められている。だからこそ、それは奇跡なのだ。

 人生もまた、折々に拍手がなされる。スタートの拍手は賑やかだ。誕生、入学、入社、結婚。人は集まり、祝い、拍手してくれる。しかし、終わりまで見届けてくれる人はどれだけいるだろう。折々に、物事の終わりに、そして何より人生の最後に「あなたはとても良かった」と、心から拍手してくれる存在が、果たして私たちにいるだろうか。

 実はこの「最初の拍手」と「最後の拍手」の両方が登場する場がある。それが礼拝である。礼拝は前奏によってはじまり、後奏によって終わる。それらは「礼拝のはじまりと終わり」であると同時に、日常生活の「おわり」と「はじまり」でもある。前奏という礼拝の始まりが同時に日常生活の終わりであり、後奏という礼拝の終わりが同時に日常生活の始まりなのだ。そして前奏には「これまでよくやった!」という労いが込められている。実際、神様の導きに身をゆだねた者だけが前奏を聞くことができるわけである。だから礼拝の前奏は、人生の折々における最後の拍手なのだ。