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ショートエッセイ#20『誰もが誰かの何かなのだ。』


 サッカー界の頂点に立つ男、キリアン・エムバペ。まるで漫画のキャラクターのようなスピードと技術で世界を驚かせてきたスター選手だ。「世界一のサッカー選手」というと色々異論があるかもしれないが、少なくとも「世界一のサッカー選手は誰か」という議論においては必ずエムバペの名前が挙がる。要するに、今人類で最もサッカーが上手い数人の一人だ。さて、先日、そのエムバペが記者会見前、ネクタイを結べず右往左往する姿が映像で流れた。彼は結局、スタッフに手伝ってもらいながら結び目を整えてもらっていた。「人間離れした世界トップレベルのスター選手」のはずが、ネクタイひとつ満足に結べない。画面越しに多くの視聴者が頬をゆるめ、「モンスターと称された彼だって、中身は私たちと同じ人間なのだ」と一気に親近感を抱いたという。

 人はそれぞれ、得意不得意がある。万能な人はいない。だから互いに助け合わねばならない。聖書はこう言う。「手が足に向かって『お前はいらない』とは言えない」。身体の器官がそれぞれの働きを担うように、人も皆、異なる役割を託されている。ネクタイを結ぶ指先の器用さと、ピッチを駆け抜け抜ける爆発的なスプリントは、別の働きである。

 人と人との間には差異がある。だがそこに優劣はない。エムバペがゴールを決め、記者会見に臨むとき、しかしそこには彼のネクタイを結ぶスタッフの働きがある。そのスタッフがいなければ彼は正装で記者会見をすることができない。だからネクタイを整えたスタッフもまた、エムバペの働きと輝きに関与しているといえる。

 私たちが担う小さな働きにも、誰かを輝かせ、世界を前へ進める力がある。聖書が語る「身体のたとえ」は、こう続く。「神は、各器官をからだに備え、その働きを最もふさわしいように定めになった」。つまり、私たちは誰もが欠くことのできない存在であり、神が「ここにこそ」と配置した一人ひとりなのである。

 「ネクタイを結ぶ人」がいるから、「世界最速のストライカー」は晴れ舞台に立てる。だとすれば、私たちの見えにくい奉仕も、誰かの人生を支え、神の大きな計画を前へ進めているに違いない。自分の働きが小さく思える時ほど思い出したい。「私には私にしかできない役割があり、私はこの世界に必要とされているのだ」。そう信じて、今日も自分の持ち場での役割を丁寧に果たしていきたい。