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ショートエッセイ#24『セミ、杖、神さま』


最近セミがおとなしい。セミといえば暑い夏に鳴きだす虫だ。ところが最近は暑すぎて出てこられないのだそうだ。つまり「暑くなきゃだめ」だけど「暑すぎてもだめ」なのだそうだ。案外暑さに弱いセミである。

そしてこれは人間も同じである。人生が順調な時には「神様?必要ないね」となり、逆に苦しみが激しすぎると文句ばかりで耳を閉ざす。セミも人間も、穏やかすぎてもダメ、暑すぎてもだめなのだ。だから結局は、ちょうどよいときに神の声を聞く練習をしておく必要がある。

賛美歌の歌詞に「信仰こそ旅路を導く杖」とある。杖なんて、元気なときは邪魔にしか見えない。健脚を発揮している10代の若者はわざわざ自分用の杖など用意しないだろう。ところがいざ転びそうになった瞬間に「やっぱり杖が欲しい」と思っても、もう間に合わない。そう、杖はコケる前に持っておくからこそ意味がある。そしてこの讃美歌は歌うのである「信仰は杖のようなものだ」と。

私たちはとかく「困ったときの神頼み」で済ませがちだ。試験の前日に急に熱心に祈り出す学生や、健康診断の結果が出る日だけ信心深くなる大人。だがそれは、滑りそうになってから杖を探すようなものである。現実の人生はそんなに親切ではないし、苦しみのただ中で余裕を持って信仰を育むことなど難しい。過熱しすぎると声が遠くなってしまうのはセミも神様も一緒だし、平穏なときから備えてこそ意味があるという点では信仰も杖も一緒だ。

考えてみれば、杖もセミも地味な存在だ。派手さはないし、普段は忘れられている。だが、いざというときにその一本、その一声の存在感は際立つ。信仰も同じだ。普段は脇役のように思えても、人生の旅路で転びそうになったとき、確かに私たちを支えてくれる。

幸いなことに、この杖は高価なブランド品ではない。礼拝は毎週あるし、聖書は誰にでも開かれている。入手困難な限定品でもなければ、予約待ちもない。求めればすぐに手にできる。実は神様は、セミよりもよほど捕まえやすいのだ。

今、元気なうちに、平穏なうちに、信仰という杖を手にしよう。人生の旅路は長い。どうせなら杖を片手に歩く方が安全ではないか。