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ショートエッセイ#25『距離の長さは荷物次第』

「今日は、教会がいつもより遠かったんですよ」。先日、近所に住む教会員が教会に来るなり笑ってそう仰った。いつのまにか引っ越したのか?いやいや引っ越したわけではなさそうだ。となると家からの道のりはいつもと同じはずだ。よくよく話を聞いてみると、どうやらいつもより荷物が多く、重かったとのことそう、荷物がいつもより重いと、歩く距離がいつもより長く感じるものなのである。
距離が同じでも、背負う荷物の重さが変われば、道のりの感覚や感じる距離感は変わる。たとえば朝のゴミ捨て。重いごみ袋を両手に握った時などは、わずか数メートルでも遥か彼方に感じてしまう。かと思えば、手ぶらでふらっと散歩に出るときにはいつのまにかずいぶん遠くまで行けてしまったりする。このように、物理的な距離は同じでも、心理的な距離は荷物の重さでずいぶん変わるのである。これも一種の相対性理論だ。
さて、この「荷物の重さ理論」は、人生でも同じである。職場や家庭の悩み、体の不調、人間関係の疲れ、不安な将来など。そうした荷物は目には見えないが、確かに歩みを重くする。そして重さに慣れてしまうと、それが自分にどれほど負担をかけているかにも気づきにくくなる。
教会の礼拝は、ただ集まって賛美し聖書を読む時間ではない。自分が今どんな荷物を持っているのかを確かめる時間でもある。この一週間で増えた心配事、何年も手放せずにいる古い痛み、人知れず抱えている責任や期待……それらを思い返し、「この荷物は、今の歩みにとって重すぎないか」「この荷物はもう持たなくて良いのではないか」と自分に問う機会である。人は、歩きながら鞄の中身を確認することはできない。鞄の中身を確認したければ、一度立ち止まって、鞄を開かないといけない。これもまた、人生も同じである。
もし重すぎるなら、どうすれば軽くできるだろうか。人に頼る、やり方を変える、そもそももう持たなくて良い。中には「そもそも今、自分が持つ必要がない荷物」もあるだろう。あるいは「自分が背負おうが背負うまいが変わらない荷物」もあるだろう。それを見極め、思いきって荷物降ろす決断をすることも大切だろう。なにせ私たちがどれだけ努力して精神力や筋力を鍛えたとしても、腕は2本しかないのだから。
要のない荷物を一つ降ろすだけでも、道のりは驚くほど短く感じられる。歩幅が軽くなれば、景色を眺める余裕も戻ってくるだろう。礼拝を終えて外に出るとき、「ああ、今日は教会が近かった」と感じられるような、そんな歩み方を選びたい。それは単なる比喩ではない。人生の道を軽やかに歩むために、礼拝は「荷物の重さを測り直す場所」なのである。
