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ショートエッセイ#27『ひまわり畑に行かなくても、たぶんひまわりはすぐ見つかる』


「美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを見つけるんだ」

 この言葉はゴッホが語ったと伝えられている(ただしこれは言い伝えであり、実際には文献的な根拠はないようです)。私たちはしばしば、「もっと条件が整えば」「あの場所に行けば」「別の環境に身を置けば」と、あたかもここではない別のどこかに美しい景色の条件を揃えた景色があって、その美しい景色そのものを求めて動こうとする。しかしゴッホは、「既に今目の前にある景色のなかに美しさを見いだそう」と教える。自分が今いる場所や置かれた環境について見つめ直させる、とても意味深い言葉だと思う。

 神様と共にいきる姿勢を信仰というが、信仰とはいうならば、日常のありふれた風景の中に神様の恵みを見つけようとする姿勢である。聖書を開くと、神様は荒れ野に花を咲かせ、荒地に道を備えられると繰り返し語られる。つまり「美しい景色」を待つのではなく今ある風景のなかに美しさを見いだすように、神様の働きを求めて彷徨うのではなく今ある環境や状況の中に神様の働きを見つけていく。これが信仰の生き方なのである。

 私たちの人生は、必ずしも劇的な出来事ばかりではない。仕事や家事の繰り返し、人間関係の小さなすれ違い、体調の波。代わり映えのしない景色に思わず叫びたくなる瞬間もある(これはムンクか)。しかしその一つ一つの中に「美しいもの」が潜んでいると信じてみよう、そして見つめ直してみよう。するとそこには誰かの小さな思いやり、自分の中に生まれる小さな感謝の芽などを発見できるはずだ。そうした一つ一つを信仰の目で拾い上げるとき、平凡な日常が祝福の景色へと変わっていくはずである。

 というわけで、信仰の歩みとは「いつかどこかにある理想の景色」を探すことではない。今日という景色の中に、すでに息づいている神様の恵みを見出すことである。美しい景色は未来の遠い場所にあるのではなく、すでに目の前の景色の中に織り込まれているのである。