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ショートエッセイ#28『「清くなったことが聖なのではない。清くなろうとすることが聖なのである。」ジャン・カルヴァン(宗教改革者)』

私は色々と楽器を演奏するが、それはアマチュアが趣味で嗜む程度だ。しかしそれは確かに演奏である。「プロ級ではないから演奏ではない」とはならない。これは何事にも当てはまる。料理も、趣味も、学びも、「極めなければ行ったとはいえない」ではない。「よし、やろう!」と決意して一歩踏み出すのであれば、そこからすでに歩みははじまっている。
このことを信仰についても言い表したのが上記カルヴァンの言葉である。「聖」とは「神様の者であること」、「清い」とは「その言動が神の者に相応しいこと」である。だから文章の意味は「その言動が神の者に相応しくなったから神の者になるのではない。その言動が神の者に相応しくなろうとすることが、神の者なのである」となる。時折教会で「まだ信仰のことはわからないし、日々も整えられないから私は洗礼に相応しくない」という声を聞くが、これは間違っている。すべてが出来上がって洗礼に相応しい自分になってから、ではない。洗礼を受けて、それにふさわしい自分へと変えられていくのである(そして私たちがそう願う時、それは聖霊の働きである)。そもそも「清くなったことが聖」であるならば、この世に「聖なる人=神の者」など一人もいないことになる(イエス様を除いて)。
ラグビーが大いに盛り上がった際、今回はじめてラグビーに触れたばかりでまだよくルールも知らない人々を「にわか」と呼ぶのに対して、ラグビー選手たちは口をそろえて「にわかでもファンはファン!」と言っていた。一歩踏み出せば、すでにその道の上に立っているのである。そしてラグビーファンの私から見れば、にわかというのは、これからルールを知る喜びがあるじゃないか!と羨ましく思う。しばしば自分の信仰の未熟さを嘆く敬虔な私たちではあるが、裏を返せばそれは、まだまだこれから発見がある、ということだ。カルヴァンの言葉に励まされつつ、これからの歩みを楽しみたい。
