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ショートエッセイ#29『竜巻の見つけ方』

先日静岡県を襲った台風では、各地に深刻な被害が出た。被災された方々の一日も早い回復と復興を願うばかりである。
さて、その報道の中である地域について「竜巻が発生していた」と公式に発表された。ところが面白いことに、誰も竜巻そのものを見ていないのだという。ではなぜ発生が確認されたのか。それは「漏斗雲」が観測されていたからである。漏斗雲とは竜巻の前段階に現れる特徴的な雲である。雲が垂れ下がるように形成されるこの現象は直後に竜巻を引き起こす。故にこの雲の存在は竜巻の存在を裏づける証拠となる。だから、竜巻を直接見ていなくても「確かに竜巻は発生していた」と判断できるし、どのような漏斗雲が出ていたかを知ることが出来れば竜巻そのものが見えていなくても竜巻について知ることが出来る。
この竜巻と漏斗雲の関係は、神様の恵みと礼拝の関係にとてもよく似ていると思う。神様の恵みを受けている人は必ず礼拝をしている。礼拝をしていない人が神様の恵みを得ていると確信するのは無理がある。礼拝をせずに、都合のいいときだけ恵みを期待するのは順番が逆である。だから礼拝が漏斗雲で、恵みが竜巻だ。人生に礼拝があるならば、そこには恵みがあるはずだと考えてよい。
私たちは「恵みだけ欲しい」と思いがちだ。健康も欲しいし、経済も安定してほしいし、人間関係も平和であってほしい。そしてそのために神様が役に立つならどうぞお働きくださいと願う。しかし一方で肝心の礼拝は後回しにしてしまう。それは、漏斗雲が見えないのに「竜巻が起こっているはず」と言い張るようなものだ。やはりそれは無理がある。
礼拝は漏斗雲だ。礼拝はただ聖書の話を聞く時間ではないし、ただなんとなく素敵な時間を過ごすというのでもない。礼拝とは「神様から恵みをもらえる人がその権利を確認する時間」なのだ。だから人生に礼拝がある人には人生に恵みがあるし、逆もまた然りなのだ。
竜巻そのものを見なくても、漏斗雲が証拠になるように、神様の恵みを直接見ることは難しくても、礼拝という「証拠」を通して「私の人生には神様の恵みがある」と信じることが出来る。だからやっぱり、礼拝のある人生と無い人生は、全く違うのだ。
