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ショートエッセイ#30『連打したってエレベーターは急ぎませんよ』


駅やビルでエレベーターを呼んだり行き先を告げたり扉を閉めたりするとき、ボタンを押すことになる。そして多くの場合、私たちはボタンを連打する(かくいう私も連打する)。自分が先に進みたい、ドアを早く閉めたいという気持ちが私たちにボタンを連打させる。だが実際には、連打しようが一回押そうがおかまいなく、エレベーターは機械の仕組みに従って動く。タイミングはあらかじめ設定されており、人間の焦りに応じて早く動くわけではない。さらに外に人が近づいていたりするとドアは閉まるどころか開いてしまったり、呼び出しても他の階が優先されたりする。つまり、私たちがどれほど「来い」「閉まれ」と願っても、思い通りには動かない。そう、連打したって意味はないのである。

人生もこれとよく似ている。私たちは「今だ」と思うときに「これだ」という物事を急ぎたくなる。自分の直感に従い、すぐにボタンを押したくなるし、なかなか開始しないと連打したくなる。しかし現実にはエレベーターと同じく、思ったようにドアが閉まらないことも多いし、なかなか来ないことも多い。むしろ遅れたり、逆方向が開いてしまうことすらある。そのとき私たちは焦り、苛立ち、不安になる。だが、エレベーターの仕組みを考えればわかるように、そこには「適切なタイミング」というものがある。人がまだ出入りしているときに無理やり閉めれば危険である。逆に余裕を持って閉まるからこそ安全が守られる。人生においても、神様は私たちの思惑とは違うタイミングで事を進められる。だがそれは、私たちを守り、最もふさわしい道へ導くためのタイミングなのだ。

聖書にこう書いてある。「神のなさることは、すべてタイミングばっちりだ」。実際、神様のタイミングを受け入れた人々の歩みは、最終的に守られ、祝福されてきた。アブラハムは約束の成就をすぐに見たわけではないし、モーセは40年間の荒野を経てようやく目的を達した。彼らにとっては長く感じる時間も、実は適切なタイミングだった。

だからこそ、私たちが人生で様々なボタンを連打したくなるときには、ちょっと立ち止まってみてはどうだろうか。なぜ今ドアが閉まらないのか、なぜ待たされているのか、なぜ反対行きばかり来るのか。それは神様が私たちを守ったり、まだ出入りしている人を気遣ったり、あるいは思わぬチャンスを与えるためかもしれない。そして、次にエレベーターに乗るとき、ボタンを押すその指を見てみよう。そこには、人生を急ぎすぎる私たちの姿が映し出されている。そして同時に思い出してほしい。「私のタイミングではなく、神様のタイミングを待ってみよう」と。