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ショートエッセイ#32『人が猿になるとき』

かつて、映画『猿の惑星』の撮影現場で、興味深い現象が起こった。撮影前、俳優たちは黒人は黒人、白人は白人で固まって談笑していた。ところが特殊メイクが施されると、今度は「猿役」と「人間役」に分かれて固まり、それぞれで歓談を始めたというのである。つまり人間は、自分を「何者だ」と認識しているかによって自然と振る舞いが変わるのだ。人種や性格よりも、そのときの「役割」や「立ち位置」のほうが行動を左右する。実に示唆に富んだ逸話である。
人間は「自分が何者か」によって大きく変わる。社会的肩書き、職業、家庭での役割。ある人は「会社員」としてふるまい、家では「父親」や「母親」としての顔を見せる。人は自分を何者と捉えるかで、言葉も態度も異なってくる。もし自分を「取るに足らない存在」と認識するなら、行動はおのずと萎縮し、自分を卑下した態度をとるようになる。逆に「自分は大切にされている存在だ」と認識するなら、そこには余裕が生まれ、人にも希望を与えるような振る舞いになる。
聖書が告げる新しい生き方は、この「自己認識」に深く関わっている。ペトロは人々に向けてこう語った。「しかし、あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神様のものとなった民です」(一ペトロ2章9節)。ここで語られているのは、人間の努力や実績に基づく身分ではない。神様が一方的に「あなたはわたしの民だ」と呼んでくださることによって与えられる、付与された新しい身分である。この「神様のVIPとして生きる」という自己認識は、生きる上での大きな力をもたらす。たとえば困難に直面したとき、自分を「ちっぽけで無力な存在」と見るなら絶望しか生まれない。しかし「神様が共にいる大切な存在」と受けとめるなら、そこには立ち上がる勇気と未来への希望が湧いてくる。信仰生活とは、この自己認識を毎日更新し続ける営みだといえる。
人間は自分をどう見るかで変わる。だからこそ、私たちに求められているのは「神様の前で自分をどう認識するか」である。自分を過小評価してしまう時代だからこそ、聖書の言葉を繰り返し胸に刻みたい。あなたは神様にとってのVIPである。その認識が、人生の表情を変える。振る舞いを変える。そして未来に希望をもたらす。だから、次に鏡をのぞくとき、自分に問いかけてみてはどうだろうか。「私は誰なのか」。そしてその答えを「神様のVIPだ」と言い切れるとき、そこから新しい一日が始まるのである。
