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ショートエッセイ#33『月は増えも減りもしない』

先日は中秋の名月だった。人は昔から月を見上げては、その満ち欠けを丁寧に記録し、それぞれに特有な名前をつけてきた。三日月、新月、半月、十五夜…。昔の人々にとって月の形は、時に暦や季節を表すものとして、時に人の心情を言い表すものとして、様々に用いられてきた。けれども、考えてみれば不思議である。月の満ち欠けを色々と言い表しはするが、しかし実際のところは月そのものが増えたり減ったりするわけではないのだ。いつでも、どんなときも月の質量は同じだし、形は丸井。ただ太陽の光がどの角度から当たるか、あるいは地球の影がどれほど差し込むか、それによって見える姿が変わるだけなのである。
私たちの人生もまた、少し似ている。ある時は人からの評価を受けて明るく輝くように感じる。逆に、誤解や批判にさらされて心が影ることもある。あるいは、自分自身の中に「足りない」「至らない」と思う影を見てしまう日もある。そうした光や影の当たり方によって、私たちは自分の価値が増えたり減ったりするように感じてしまう。しかし、それは月と同じく「見え方が変わるだけ」であって、本体は少しも損なわれていない。
聖書はこう語る。「人は外の姿を見るが、神様は心を見る」。神様の光は、他人の評価や自己否定の影に左右されない。神様はあなたという存在そのものを見つめ、何をしようが何が出来まいが、変わることなくその価値を貴んでくれる。だから、たとえ今が「新月」のように真っ暗に見える時期でも、神様はあなたの存在そのものを「値高く貴い」と言い続けてくれる。そしてだからこそ、人はどのような状況にあっても、礼拝することを拒まれはしないのである。
キリスト教信仰とは、自分の光を必死に増やそうとすることではない。すでに神様の前で満ちていることを思い出す営みなである。人の目には欠けて見えても、神様の目には常に満月なのだ。
どうか今週、夜空を見上げてほしい。たとえ雲に隠れていても、月はそこにある。見えなくても、確かに満ちている。神様に認められているあなたもまた、そういう存在なのである。
