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ショートエッセイ#37『美味しいアンパンになろう』


アンパンは、なぜ時間がたつとしぼんでしまうのか。買ったばかりはふっくらとしているのに、いつの間にか平らになっている。あれは決して外から押されたわけではない。中の餡のほうが皮より水分量が多く、その水分が少しずつ皮に移動し、柔らかくし、そしてしぼませてしまうからである。つまり、アンパンがしぼむ理由は「外からの力」ではなく「内側の状態」にある、ということになる。

人間もこれに似ていると思う。餡は心、水分は不安や心配だ。ふっくらした皮が人生や生活だとすれば、私たちの心の状態が暮らしの張りや形を大きく左右している。同じ光景を見ていても、心が変われば意味も変わる。同じ雨でもある人は「よい恵み」と受け取り、ある人は「せっかくの休みなのに」と災難のように感じる。外側の出来事は同じでも、内側の水分量によって、ふくらみ方も、しぼみ方も変わってしまうのである。

だからといって、水分がまったくない餡がおいしいかと言えば、そうでもない。ぱさぱさの餡ではアンパンとしての魅力は半減する。不安も心配も一切ない世界があれば、それはそれで現実から遊離した、味気ない心かもしれない。ある程度の不安があるからこそ、人は守りたいものを意識し、備えを考える。不安があるからこそ、安心のありがたみが分かる。心配があるからこそ、安堵の深さを味わうことができる。

聖書は「何事にも思い煩わないで」(フィリピの信徒への手紙4:6)と語るが、それは不安や心配の感情そのものを否定しているのではない。そうではなくて、思い煩いに支配されるのではなく、神様に全ての思いを委ねるようにとすすめるのである。

私たちに必要なのは、不安ゼロの人生ではなく、不安や心配を抱えながらも、それに押しつぶされないバランスであろう。水気があるからこそ味わい深い餡になるように、涙やため息があるからこそ、そこに祈りや感謝が生まれることもある。大切なのは、その水分をどこに預けるか、だれと分かち合うかである。

神様の前に心を差し出し、少しずつ整えられていくとき、私たちの人生というアンパンも、極端にしぼみすぎず、また張りつめすぎず、ちょうどよい柔らかさを保てるのかもしれない。完璧なふくらみである必要はない。ただ、「ああ、これくらいでちょうどいい」と笑えるような、いい感じのアンパンを目指して生きていきたいものである。そして礼拝は、そのバランスを整えるための時間なのだ。