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ショートエッセイ#38『あなたの心はふっくら炊けていますか?』

先日、世界各地の料理風景を紹介する動画をぼーっと見ていた。料理は本当に多様である。使われる食材も、調理法も、包丁や鍋の形も、驚くほど違う。同じ「調理」という営みなのに、ここまで違うのかと驚かされる。ところが、そうして世界中の調理風景を見ているうちにある発見をした。それは、お米を炊く場面である。炊飯器であれ、鍋であれ、土鍋であれ、方法は違っても水の量は全くと言っていいほど同じなのだ。まぁ確かに、イギリスだろうが日本だろうがメキシコだろうが、水が多すぎると米がべちゃっとしてしまうのは共通だろう。
人間の心も、これと同じだと思う。生まれ育った環境も、性格も、価値観も、人の心は千差万別である。喜び方も悲しみ方も、安心する場所も違う。それでも「これがなければ生きていけない」というものは、実は共通しているのではないだろうか。理解されたいという願い、赦されたいという思い、出来事に意味を求める心、希望を失いたくないという叫び。米と同じで、心に必要な水分量は皆同じなんだろうなと思う。
そして、だからこそ世界中に教会があり、同じ聖書が読まれ、同じように礼拝が守られてきたのだと思う。文化も言葉も違うのに、祈り、賛美し、聖書に耳を傾けるという営みが2000年も続いてきた。それは、教会が「人間の心に必要な水加減」を知っているからではないだろうか。
聖書は「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」と語る。これは、あなたの人生に必要なものを神はご存じだという告白である。鍋が違っても水の必要量が変わらないように、人の歩みが違っても魂に必要な恵みは変わらない。
礼拝は、その水加減を調整するための時間だ。多すぎても、少なすぎても、心はうまく炊き上がらない。祈りと御言葉の中で、神がちょうどよい量を注いでくださる。世界のどこで生きていても人が礼拝に集う理由がここにある。
私たちは皆、それぞれ違う鍋に米を入れている。そして水分量が多すぎたり少なすぎたりしながら生きている。ぜひ教会の礼拝を通して、人生がふっくら美味しく炊き上がるちょうどよい水分量を目指してもらえたら、と思う。
