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ショートエッセイ#42『散髪と礼拝』

先日、髪を切りに行った。そこで美容師から少し意外な話を聞いた。なんでも
、体調がよくないと散髪はできないのだという。一見すると椅子に座ってじっと
しているだけなのだから体調など関係なさそうに思える。しかし実際には、髪や
頭を他人に触られるという行為は、体調が悪いと想像以上に体に負担がかかり、
具合が悪くなってしまうらしい。実際にそれで散髪を中断して帰る人もときどき
いるそうだ。
散髪はただ髪を切られる時間ではない。自分の頭を他人に委ね、触れられ、整えられる時間である。普段は触られることのない部分を触られることによって具合が変化する。だから散髪というのは実は、じっと座っているだけに見えて、とても繊細な営みなのだ。
この話を聞きながら、教会の礼拝もどこか似ていると思った。礼拝もまた、外から見ると「座って話を聞いているだけ」の時間に見える。特別な動きがあるわけでもなく、何か成果が目に見えて出るわけでもない。しかし実際には、礼拝は自分の内側や過去に触れられる時間である。聖書の言葉が語られ、祈りがささげられ、賛美が歌われる中で、私たちは自分の隠している内側、振り向きたくない過去、ひとに聞かせられない思いや感想、更には生き方や価値観、抱えている不安や願いなどに触れられていく。だから心身が疲れ切っている時には礼拝がつらく感じることがある。しかしそれは信仰が弱くなったからではなく、聞く私たちの側が心身に不調を持っているからかもしれない。散髪時に体調不良が明らかになるように、礼拝することで普段ひた隠しにしている不調が明らかになる。
散髪も礼拝も、普段触れられない部分に触れられつつ形を整えていくことだ。だから不調が露わになることもあるだろうし、居心地の悪さを感じることもあるだろう。しかし散髪も礼拝も、やるとやらないとでは大違いである。定期的な散髪と礼拝を欠かさないようにしたい。
