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ショートエッセイ#48『間違い探しの間違いのほうの祈り』


 大学院で論文を書いていた頃のことである。「うーんうーん」という状態が続いた(ちなみにこの時は「前期パネンベルクの終末論的神学思想におけるヘーゲルの歴史哲学の影響」なんてことを考えていた。実につまらなそうな話である)。あまり成果はあがっていなかった。と、そんな時、担当教授からこんなことを言われた。

「研究することと、成果を出すことは、違う事ですよ。成果が出ないことを焦ってはいけません。良い研究の結果、成果が出ないという結果もありうることです。」

そう、研究の結果、成果が無いというゴールだってありえるのだ。数学に「解無し」というものがある。これは「この数式には答えが無い」という数式のことで、その場合この数式の計算結果は「解無し、つまり答えが無い」が成果になる。大体、世の中の全ての事柄や問題に答えがあるわけではないし、答えを求めるべきではないことだってある。

 これ以来、「研究することと、成果を出すことは、違う事」という考え方は私のお気に入りの思考法の1つとなった。手段が同じでも目的が違う、ということとは意外と多い。そしてこの考え方は応用が幅広い。例えば……

「健康を目指すことと、ダイエットすることは、違う事」

「勉強することと、良い成績をとることは、違う事」

「オシャレをすることと、身だしなみを整えることは、違う事」

いずれも、手段は同じでも目的や目標が違っている。そして、目的や目標が違う時、同じ手段でも良し悪しや功罪がまるで変ってしまうのである。

 教会では「祈ること」を教えるが、これもやはり同様に考えることが出来る。

「祈ることと、願望の実現を目指すことは、違う事」

聖書が教える祈りとは、自分の思いを明らかにしつつ、それを神様の思いによって点検することである。自分の思いが神様から見て良いものであれば、願望の実現に至るかもしれない。逆に自分の思いが神様から見て「それはあなたにとって良くないことだ」と判定されるのであれば、その祈りは願望の実現には至らない。祈りにおいては「不正解が正解」になることがあるのだ。

 しかし、だから祈りは面白いのである。祈らなかった事柄の結果は気まぐれかもしれないが、祈った事柄の結果には神様の思いが宿っているかもしれない。だから、祈った後には結果がとても気になるようになる。さぁ、祈ってみよう。