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ショートエッセイ#55『神経が触れれば幽霊だって実体化する』

歯が痛い。私の奥歯は長年の食いしばりによって大きなヒビが入り、それが神経に刺激を与えて「電撃痛」と称されるほどの激痛をもたらしている……と、言う出だしで始まるコラムももう1か月になる。毎回涙が出るほど痛い治療がなされたわけだが、なんと!今回!ついに!すごいことが起こった!
何せ毎回痛い痛い治療なわけである。今回もうんざりした気持ちで(そしておそらくはそうした表情をしていたのだろう)椅子に座っていると、歯医者さんがやってきて一言、「今日の処置は絶対痛くないからね、安心して」。
絶対!ほんとかー!?ほんとだろうなー!?と逆に期待が膨らんだ。そしていざ処置がはじまると……
本当に痛くないのである。これまでの痛みを伴う処置を「治療」と言うならば、さしずめ今回はもはや「チ。」である。それぐらい痛くないのである。そして全く痛みを伴わないまますべての処置が終わった。
なぜ痛くなかったか、理由は明白である。「神経抜いたからだ。」
そう、神経を抜いたのである。痛みを感じる神経を抜いたら、痛くはないであろう。よく考えてみれば当たり前の話であるし、そりゃ「絶対痛くない」である。
時々教会に電話がくる。
「私は一度も神の恵みなんて感じたこともない!だから礼拝なんていかない!」
この手の話を聞くたびに私は思う、「そりゃそうだろう」と。いうならば礼拝は、神様の恵みを運ぶための神経だ。神経が通ってなければ何かを感じることは無い。上記のような人々は「恵みなんて感じたことないから礼拝しない」と言いたいのだろうが、私に言わせると「礼拝しないなら恵みを感じるはずはない」のである。神経を抜いた歯が温度や痛みを感じることがないのと理屈は同じである。
しかしどうも、この順番が逆になっている人が多い。「納得したら求めます」というのだが、私に言わせれば「納得したかったら求めなさい」もしくは「求めなさい、そうすれば納得する」である。真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)という落語がある。神経が触れたら幽霊の存在すら実感できてしまう、という話だ。どうだろう、試しに奥歯の神経を抜いてみてほしい。そうすれば私の話に納得できるはずである……なんてね。
