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ショートエッセイ#56『「痛くない」の弊害』

歯が痛……くない。もはや歯は痛くないのである。私の奥歯は長年の食いしばりによって大きなヒビが入り、それが神経に刺激を与えて「電撃痛」と称されるほどの激痛をもたらしていたのだが、もう痛くないのである。なぜならば、既に神経を抜いたからだ。ははは、歯が痛くないとはかくも幸せなことなのか!
しかし!油断してはいけない。これはただ「痛くない」というだけの話である。「痛くない」と「治っている」は全く別の話である。私の奥歯はまだまだ治療中であり、確かに痛くは無いが、治ってもない。欠けた奥歯は欠けたままだし、空いた穴も空いたままだ。ただ神経を抜いたから痛くないのと、仮封しているから歯があるように感じるだけだ。そう、実感は無くなったが、問題は無くなっていないのである。
ところで、どうも私たちはこの「実感は無くなった」に弱い気がする。実感が無くなるとあたかも問題そのものが無くなったかものように感じてしまう。そういえば以前インターネット上でこんな話を読んだことがある。ある整形外科医が、子どもがケガをした際にあまり痛み止めを出さないと言った。理由は単純で「痛みがなくなると元通り動こうとしてかえって悪化させるから」だそうだ。実感が無くなっても問題が消えたわけではない。しかし実感が無くなったことで問題が消えたと勘違いし、結果問題を悪化させてしまうのである。
その点、聖書は実感のない問題を発掘するための書物だといえよう。私たちは神様を失ったまま生きており、その実害などは特に感じていない。実害を感じていないから「神様なんて知らなくても平気」と考える。しかしそれは私の奥歯と同じである。問題が無いのではない、問題はあるが実感できていないだけなのだ。
もし、あなたが今、何かしら生きづらさや言葉にならない不安を抱えているなら、きっと助けは近いだろう。人は実感できている害には対処しようとするからだ。しかしもしあなたが今そうしたことを実感していないなら、かえって気を付けた方が良いかもしれない。実感のない問題は、ある日大問題となって大きな実害をもたらすからだ。そう、私の奥歯の激痛の始まりが実感なき小さなヒビであったように。
