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ショートエッセイ#6『枝豆!!』


 先日、家庭菜園の枝豆がついに実った。長く大変な道のりだった。とにかく虫がつく(これがとにかく大変)、肥料が豊富に必要なためすぐ雑草が生えてくる、などなど。トマトやバジルに比べるとその大変さは格段に上だった(と言うのはトマトやバジルに失礼か)。そして私はこの汗と涙の結晶である枝豆数粒を、さも高級なウニでも食べるかのような所作で一粒一粒ちびりちびりと食した。そして気付いた。私は今までなんと大胆に、粗暴に、雑に枝豆を食べていたことか。2~3粒適当に口に放り込むことすらあった。一粒一粒味わって食べることなどなかった。一粒床に落としてもさっと捨てていたが、自分で育てたあの枝豆ならば、転がりゆく枝豆を求めてどこまでも追いかけていくことだろう。

 私たちがこの人生を、神様に覚えられ、整えられ、導かれる人生として受け取るならば、私たちはさながらあの、手塩にかけた枝豆である。見た目はそう変わらないし、正直いうと味もそこまで変わらなかった。しかし込められた愛情と手間暇の故に、その扱いは格別であった。私たちは生物学的進展の過程でたまたま生まれた一生命体ではない。神様が一人一人を求めて導いて下さったのである。
私たちが一人一人違うのは、それぞれに神様の愛情や配慮がなされたからである。

 そしてもう1つ気付かされたことがある。それは、あの大量生産され大量消費されている大量の枝豆だって同じように、手間暇かけて育てられているということである。大量生産だから肥料が無くていいということはないし、虫に食べられていいというわけでもない。誰もが皆、教会を通して神様を知ることが出来る。そして私たちは神様を知る中で自分自身の「かけがえのなさ」を知り、神様を知る中で自分自身の尊さを知る。私たちは皆、手塩にかけて育てられた枝豆なのである。

 ところで、枝豆と言えばやはり「塩」である。塩が振られた枝豆は、それだけでおさけ・・・いやいや、飲み物がいくらでもすすむ万能おかずだ。そういえばイエス様は福音(イエス様の救い)にあずかった者のことを「地の塩」と呼んだ。塩によって味わいが格段に変わるのである。私たちが枝豆であるならば、その味わいを増す「福音」という塩を、ぜひ身にまといたいものである。