Home > ショートエッセイ > ショートエッセイ#61『波は遠くに行くほど広がる』
ショートエッセイ#61『波は遠くに行くほど広がる』

大雨の際に町内の道路が通行止めになることがある。水がたまっているから危ない、というのは分かる。しかし以前から少し疑問だった。普通の車は無理でも、ランドクルーザーやジープ、パジェロのような車なら通れるのではないか。ああいう車は多少の悪路や水たまりにも強いはずである。ならば、通れる車だけ通してもよさそうなものだ。ところが、そういう話ではないらしい。
問題はその車が通れるかどうかだけではない。水のたまった道路を車が走ると、車体が水を押しのけ、大きな波が起こる。その波が道路脇へ押し寄せ、近隣の住宅や店舗に浸水被害を広げてしまうことがあるそうだ。つまり通行止めは、車を守るためだけではない。そこに住む人々を守るためでもあるのだ。
私たちはつい、自分が通れるかどうかだけで物事を考えてしまう。「自分は大丈夫」「自分にはできる」「自分には関係ない」と判断する。しかし実際には、自分の行動が周囲に波を起こしていることがある。その波は、自分には見えないところで、誰かを助けたり、逆に傷つけたりしているのかもしれない。だからやはり、ランドクルーザーだろうが軍用車だろうが関係なく、雨の日の通行止めは守らねばならないのだ。
信仰もまた、自分一人の内面の話では終わらない。礼拝に行くこと、祈ること、神様を思い出して一日を始めること。それらは自分の心を整えるだけではない。整えられた言葉、少し柔らかくなった態度、怒りを飲み込み相手を慮る瞬間、誰かを気にかける小さな余裕などなど。それらは本人の内心にのみ関わるのではなく、確実に周囲に波を広げていく。もちろん、私たちは自分を立派に見せるために信仰を持つのではない。周囲に良い影響を与えるためだけに礼拝するのでもない。けれども、神様と共に生きる人のいる場所には、やはり何かが起こる。その人の家庭、その人の職場、その人の言葉の届く場所に、神様の気配が少しずつ入り込んでいく。水の中を走る車が、自分の思った以上に大きな波を起こすように、礼拝した人の一週間もまた、自分の思った以上に周囲へ広がっていくことだろう。
だからこそ、私たちは今日も礼拝するのである。自分のためだけではない。自分のいる場所が、少しでも神様の恵みの通る場所となるために。
