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ショートエッセイ#63『他人はあなたを何者と言うだろうか』

ある外科医に一枚のレントゲン写真が見せられ「生前どういう人物だったでしょう?」と診断が求められた。レントゲン写真を見た外科医はこう答えた。
「この人はテニス肘ですね。死因はバイク事故でしょう」
外科医は特徴的な肘の形や全身の打撲などからそう判断したそうだ。ところが、なんとそのレントゲン写真の主は今から1400年前の人物、中臣鎌足だったのである。当然彼の時代にはテニスもバイクもない。が、彼は弓の名手であり、また死因は落馬であった。弓を引き続けたことで肘は現代でいう「テニス肘」に似た状態となり、落馬による傷は交通事故の痕跡そっくりであった。しかし中臣鎌足がその診断を聞いたなら、「テニス? バイク? 何の話ですか」と首をかしげるだろう。(もちろん実際に中臣鎌足のレントゲン写真があるわけではない。弓道肘とテニス肘、そして落馬とバイク事故の跡がそれぞれ酷似しているということにちなんだジョーク話である。)
結局、他人の評価というのはこの程度のものなのである。私たちが他人を評価するときには、自分の経験や知識、価値観を物差しにして、「この人はこういう人だ」と判断する。ところがその評価が相手を正確に表しているとは限らない。むしろその評価によって見えてくるのは、「評価した人が何を知っているか」「何を基準に物事を見ているか」ということのほうである。
だから、人からどう思われるかに振り回される必要はない。もちろん、耳を傾けるべき助言もある。しかし、すべての評価を自分の真実だと思い込む必要はないのである。繰り返すがそれはただ、評価してきた人間が何に詳しく何に敏感かを表わすばかりなのだ。
聖書は、人を正しく知っておられるのは神様だけだと語る。人は外見や限られた経験で判断するが、神様は心をご覧になる。私たちが求めるべきなのは、人の評価を集めることではなく、神様からの評価を知ることである。そして教会の礼拝は、まさにそのためにある。他人からの評価ではなく、神様からの評価を知って、人生に安心と確信を得よう。
