Home > ショートエッセイ > ショートエッセイ#66『つまり地震速報は半分しか仕事していない』

ショートエッセイ#66『つまり地震速報は半分しか仕事していない』


 2024年5月上旬、日本でちょっと珍しいニュースが報じられた。なんでも「この二週間、日本国内で震度3以上の地震が一度も発生しなかった」というのである。これは実に4年ぶりのことだそうで、気象庁関係者も「かなり珍しい」と語っていた。

 興味深いのは、「地震があった」ことではなく、「地震がなかった」ことがニュースになったという点である。地震が発生すれば速報が流れ、防災への意識も高まる。しかし、地震がない時、人はほとんどその事実に注意を向けない。むしろ「地震がない」のは「普通」として流してしまう。ところが、実際には地震の無い日々こそが貴重であり、それが続くこと自体が特別な出来事であったのだ。

 これは、私たちの信仰生活にもよく似ていると思わされた。日々の歩みの中で「神様が何かをしてくださった」と実感できる時、人は感謝しやすい。願っていたことが叶った、病気が癒された、問題が解決した——そうした明確な変化や救いがあった時には、祈りも自然と口をついて出る。しかし、「特に何も起こらなかった」日々には、なかなか神様への感謝が生まれにくい。

 だが、本当にそうだろうか。「何もなかった」は、神様が守ってくださったという証なのではないだろうか。例えば、事件が起きなかった、病気にならなかった、事故がなかった、心が折れずに済んだ……。これらは「何も起きなかったこと」に見えるかもしれないが、実は神の守りがあったからこそ何も起きなかったのだと考えるなら、「何もなかった」日々こそ、実は最も深く神様に支えられていた時間だったと言える。

 「なかった」ことに感謝するというのは、成熟した信仰の一つのかたちである。「平穏」や「普通」の日々の中にこそ、神様の守りや支えが確かにあったのだと気づける信仰である。これは、地震のない二週間がニュースになるほど貴重であったように、感謝すべき神の恵みが、私たちの「当たり前」の中にも満ちていることに気づく心だ。

 だからこそ私たちは、神様の「目立たない恵み」に気づける者でありたい。祈りの答えが来ないように見えるときも、ただ同じ日常が続いているように思えるときも、その背後には神の支えがある。地震のない二週間を「特別」として受けとめたように、今日「何もなかった」ことの中に、神様の深い守りと導きを見いだせる私たちでありたい。