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ショートエッセイ#7『「痛み止めをやめる」という治療』

実は先週日曜、私は足首をねんざしていた。横になって冷やしていれば数日でおさまるのだが、折しも日曜の朝。そこで私は痛み止めを大量に服用し、なんとか普段通り歩き回って一日を過ごした(気付かれた方もいたようだが・・・)。ところがである。そもそも「痛い」とは「それ以上はだめ」という信号だ。それを痛み止めで無理やり抑えて歩き回ったもんだから、かえって捻挫が悪化し歩くどころか座っていることもできなくなり、電話もインターホンも鳴らない中、一日横になって本を読んでいた(案外楽しんだ)。
確かに痛み止めで痛みは止まる。そして世の中には止めた方がいい痛みがある。しかしどうやら止めない方がいい痛みもあるらしい。先のねんざがその好例である。痛むままであれば庇った動きをしたり人々に助けを求めたり出来たであろう。しかし痛みを中途半端に抑えて普段通り動こうしたことで、してはいけない動きが増え、結果悪化である。
さて、もし私たちの日常の中に、この「痛み止めと同様の作用」をもった所作や営みがあるならば、もしかしたらそのせいでとても大事な何かを見落としたり悪化させたりしているかもしれない。例えば「多忙」はどうだろうか。多くの仕事と向き合うことは、自分と向き合う時間を減らしてしまう。「趣味に没頭」「気晴らし」なども同様である。それ自体は悪くないが、それによって問題から目をそらし続けるのであれば、そこにあるのは「痛み止め問題」である。このように、私たちが「何かを考えること」や「何かを感じること」を減らしたり阻害したりする所作や営みは全て、この「痛み止め問題」をうちに抱えていると言ってよいだろう。
最近「メディテーション」が流行っている。心を静めてじっとすることで集力を高めるというもので、プロスポーツ選手なども取り入れているそうだが、本来の「メディテーション」は教会のものである。心を静めて神に祈り、神の視点から見た自分の在り方について思いめぐらす、これが本来のメディテーションである。「痛み止め問題」に多く囲まれる私たちだからこそ、時には痛み止めを止めて、今の自分のありのままを見つめ直すことも必要ではないだろうか。もちろんそこには痛みも伴うであろう(自分の不義にも目を向けねばならないので)。しかしただ痛みを止め続けることは、治療にはならない。時には痛み止めを止める時間も必要なのである。
